カネばあちゃん
9月6日は私の母の母、つまり祖母の命日でした。それで祖母のことを書こうと思いながら、眠ってしまいました。
祖母は「カネ」という名前でした。1953年(S28年)の9月6日になくなっています。私が生まれたのが6月13日でしたから、私には全く記憶がないんです。私が生まれた時に、産婆さんの「カネさん」という声に“産まれた!”と湯を沸かしている土間から下駄のまま母の元にあわてて上がってきたという話です。でも私は泣かない・・・・。産婆さんが逆さにして背を叩いても元気良く泣かない。すぐに小児科の先生を呼びに行ったが、か細い息をして横たわる私に、医者もどうすることもできなかったそうです。医者が帰った後に、息が荒くなってお腹のものをピューッと勢いよく戻して、それからワーと泣いたそうです。すると私に血の気が出てきて赤くなったということですよ。ああ、カネさんのことを書いているのでした。そこでカネさんもホッとしたことでしょう。でも、私がうまれて三ヶ月もしないうちに脳卒中で亡くなってしまいました。
カネさんは、チョット気難しい変人だったのではないかと思います。でも直接話した事がないので良く分からない。母や叔母からから聞いた私の好きな話を紹介します。
カネさんは明治の人です。親が教育の大切さなど考えなかったのか学校へはあまり行っていなかったようです。髪結いさんのところで勉強して、髪結いの技術を持っていたということです。
母の兄で戦死した伯父は、大変な努力家で勉強もよくできたそうです。でも、裕福でない家計を考えてか中学校(旧制です)へは進学せず電気工事士になったそうです。努力家の伯父は、なぜか英語のテキストを友人にもらい勉強していたといいます。でも、召集がかかって出征しました。祖母は、このテキスト類を油紙(ポリ袋がない時代、水にぬれないように油を塗ったような紙で物を包んだ)で幾重にも包み、床下に埋め込んだということです。
戦後生まれは理解しにくいですが、英語は敵の言葉です。これを勉強しているとかいえば、スパイと見なされるかもしれない。そう思って床下に埋めたんです。だとすれば、カマドで燃やせばいいものをと思いますが、カネさんは伯父の本を守ってやりたかったんです。そしてカネさんは「今に、戦争が終わってアメリカ人やらイギリス人と仲よう話する時が来る。正義(マサヨシ)が帰ってきたら英語ば勉強するやろう。」と母達に話していたということです。このことは敗戦まで家族の秘密で、他人には絶対に言わなかったそうです。この数冊の本は、私も幼い頃見たことがあるのですが変色しボロボロになって家の修理で引越しした時に処分したみたいです。
字も良く読めなかったカネばあちゃんでしたが、戦後の平和な社会を夢見ていたようです。でも伯父は帰ってこなかったんです。伯父は平和な時代を知らずになくなってしまった。祖母と祖父の悲しみは想像しきれません。
もう一つ、こんな話も聞きました。
敗戦後、西戸崎の海軍の航空隊の練習場跡に米軍が進駐してきました。若い兵士が日本に来た記念として、日の丸の旗や珍しいものを手に入れようと、西戸崎炭鉱の炭住にやってきたといいます。「日の丸出せ」といわれれば、仕方なくみんな出したそうです。当時、このあたりは鍵をかけることもないような時代でしたから、すぐに戸を開けて入ってくることが出来たんです。物騒ですが、それまで犯罪ということ起こらないのが当たり前でしたからね。
カネさんの所にもやってきた。祖父は、変電所に勤務していたので夜勤でいなかった。若いアメリカ兵が、たった一人でやってきたそうです。アメリカ兵が来たと察した母と叔母はさっと隠れた。アメリカ兵は家へ入ってきて、カネさんを見て立ち尽くし泣き始めたといいます。「ママ・・・」と泣く、カネさんは大きな体で泣き崩れるアメリカの若者の背をしばらく摩っていたそうです。泣き疲れた若者は、「サンキュウ」と告げて帰り去ったということです。
アメリカ人の若者にどういう事情があったかは知りませんが、カネさんは母親を懐かしみ泣き崩れる若者にいとおしさを感じたのでしょう。何かカネさんは不思議な魅力を持っていたのか・・・。
この二つの話が、カネばあちゃんを想像する時の導きの糸みたいなものです。私とカネばあちゃんの共通点は猫や犬が好きなことみたいですね。
あの世で犬や猫と遊んでいるのか・・・。エッ、あの世には犬や猫はおらんのか・・・?