童神(わらびかみ)
神や仏と言えば人が亡くなったときのこと、と思われる方も多いと思います。先日亡くなった草若師匠は、地獄の辺りをうろついておられるようで、今日は朝ドラの葬儀の場面で笑わせて・・・。
本来は神や仏は、人が生きて行くうえでの生き方の問題として考えられていました。葬式のための神仏ではありませんね。
釈尊は、生き方の問題として仏の道を説いたし、神道は特定の家系を神としていくようなことでなく、自然現象と農耕を中心にした生産活動と人間とのかかわりの中で神を祀っていたと思います。
こうして神仏を考えていくとき、考えさせられる歌を知りました。みなさんはご存知ですよね。「童神」(わらびかみ)です。とてもいい曲です。気に入って口ずさんでいます。「スナック一輝」で教わったんですよ。
童は神さまなんですね。私もそう思うんです。無垢の赤ちゃんを見ていたら何故か神さまみたいに思えてきます。そして、子供をいつくしむ母親はまるで観世音菩薩です。人間に限らない。私が飼っていたトラというメス猫も観世音菩薩の慈悲の心で5匹の子猫を見守っていました。
人は成長するにしたがって現代社会に生きる知識や知恵を身に付けていきます。私もそんな知識や知恵を身に付けている。しかし、それは悪知恵ともいう物を多く含んでいるような気がします。それは私だけでしょうか?
私が悪知恵を身に付けているからこそ、悪知恵が無い無垢の赤ちゃんを見て神のように見えるのでしょうね。何故、大人になるにしたがって、文明社会といわれる社会に生きる人間が神や仏の心から遠くなるのか。本来人を豊かにするはずの科学や文明が進歩することで、人類は本当に豊かになったのでしょうか・・・? 何で精神的荒廃が生まれるのでしょうか・・・?
もっと自然の中で自然とともに生きることの方が、人が神や仏に近い存在として生きられたのではないかという気さえします。「童神」は自然の中で、自然の一部として天からの恵みである童を育てる母親の優しさを伝えてくれる歌ですね。自然とともにいるから人本来のやさしさが伝わるようです。人間は自然の一部であることを自覚することで光り輝くのではないかと思います。
神や仏に近い存在と思い込んで、自然を支配しようとすれば人間の中の悪魔が踊りだす!
「天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に
生まれたる我が子 祈りを込めて育て
イラヨーヘイ イラヨーホイ
イラヨー 愛し(かなし)思産子(うみなしぐわ)
泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
太陽(てぃだ)の光受けて
ゆういりよーや ヘイヨー ヘイヨー
健やかに育て
暑き夏の日は 涼風(すずかぜ)を送り
寒き冬来れば この胸に抱いて
・・・・
・・・・(省略)
嵐吹きすさむ 渡るこの浮世
母の祈り込め 永遠(とわ)の花咲かそ
・・・・
・・・・」
自然の中で自然とともに生きることで、本来の人間性を取り戻したい気がしますね。