野生動物が子をつき放すようなものか?
『成人の日』に読んだ、西日本新聞の社説がズーッと気になっています。
「厳しい社会だが、懸命に」と題する社説ですが、<独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である>という高野悦子さんの『二十歳の原点』からの引用で書き出されています。
「・・・個々の内面では、高野さんが日記に記したように、人間は誰もが本質的に独りであり未熟な存在なのだという事実に耐えて生きる覚悟を迫られる日ではないでしょうか。」と、成人の定義などを述べる中に書かれてます。
私には、人間は社会的な生き物で常に社会の中で連帯してしか生きられないものと思うのです。たとえ、孤独感にさいなまれていても食べるもの着る物、寝る場所全て人のつながりの中で手に入れています。
そのことによって、人として生きていけるのです。この人と人との繋がりが見えない社会になっていることは事実です。特に、社会的な経験が少ない青年達は支えあっているという実感も無いだろうし、学校で回りはみんな競争相手という状況が作られています。
支えあうという体験が少ない分、社会や他人に対する幻滅や怒りなどが大きくなることもあるでしょう。それが、高野さんのように自ら命を絶つということもおきるのだと思います。
私は、大人というのは、この社会で生きていくということが、人の繋がり支えあいの中で生きているということを自覚できた人たちだと思うのです。
だから、挨拶一つをとっても支えあい一緒に生きている人間同士の信頼の表現ですよね。こうして社会がうまくいくようにマナーや守るべき法律などが構成されています。
こうした、社会に生きていくことの意義を自覚する日が『成人の日』だと思います。
「・・・多くは社会で生きていくのに十分なしたたかさが備わっていません。
それでも社会は、ポンと『成人』というはんこを押すのです。その後は、どのように生きていくべきか、最終的には独りで選択し、その結果に全責任を負わなくてはなりません。」という文章には、この社説を書かれた方と全く違ったことを考えます。
成人になったばかりの若者に対し、更にさまざまな知恵を与え社会をともに生きるものとしての自覚を促すという、私たち大人の先輩の役割があると思います。何もポンとはんこを押すだけではない。地域や職場で育てられてきた私にはこの社説の意味するところが分からない。独りで選択するといっても社会の中に生きているのだから、周りとの関連の中での選択です。全責任を負わなくてはならないということは無いし、二十歳の若者に全責任を押し付けるのならその社会が狂っています。
「野生動物の親が大きくなった子を突き放すようなものーそれが成人の日」だということです。私は、社会的な生物である人間を、野生動物が子を突き放すことにたとえることは不適切だと思います。
成長した青年達を暖かく育てて行きたいと思います。20代は成人したといってもまだまだ学ぶことも多い。
多くのことを学んで、社会の中の自分を見つめてほしいですね。
一緒に暖かい社会を作って行きたいと思うんです。厳しい社会だからこそ、人と人との連帯が必要だと思います。