銃口の先は・・・

 今日は、私の伯父(母の兄)の命日でした。
 母が仏壇にビールとお菓子などを供えました。
 伯父はフィリピンのルソン島で26歳で戦死。婚約者もいたのですが・・・。(この婚約者のことは、いつか書きたいと思っています)
 近所にフィリピンから生還された方がおられ、終戦後に母や祖父・祖母は、伯父が戦死した当時のフィリピンの状況を聞いたそうです。
 「日本の兵隊さんは、『お母さん』て言うて死んでいったて言いんしゃたよ。誰が『万歳』やら言うて死ぬもんね。」と、また母が涙ぐみました。
 『硫黄島からの手紙』を見て以来、私の伯父、宇野正義を含む、多くの日本兵がルソン島でどのような死に方をしたのか気になります。本屋で、『ルソン島戦場の記録  たたかいと飢えの中を生きて』(沢田猛著、岩波ブックレット)見つけ読んでみました。敗退を繰り返し、多くの死体が置き去りに。捕虜になればかわいそうと、怪我病気で動けない者には軍医が消毒液を注射して殺害したという話も。自決用の手榴弾が手渡される。手榴弾が無くなったときには、歩けないものは生きたまま置き去りにされ飢えながら、苦しみながら死んでいったといいます。歩けていても食料はなく雑草を食べ、栄養失調でそのうち歩けなくなる。知らずに毒キノコ食べることもあったといいます。
 こうした中でも戦闘が続きアメリカ軍による攻撃が続いていました。
 フィリピンのルソン島での戦闘の模様を記録したDVDを2種類見つけ買いました。見てみると悲惨です。これはアメリカ軍のニュース映画です。アメリカ軍の敵「日本兵」を勇ましく攻撃する。自動小銃が火を噴き、戦車の砲がタマを飛ばす、火炎放射器が火を噴き塹壕の日本兵を殺す。
 銃口の向こう側は、敵である「日本兵」。殺さねば・・・。しかし、その殺される側に、飢えで苦しみ闘う能力もなくし、降伏することも恥とされた伯父達がいるのです。
 何故殺しあわなければならなかったのか。平和の大切さは、大きな犠牲を払った私たちの父や母の世代の日本人が考えてきたことだと思います。
 伯父のなくなった歳を、私の息子も越えてしまい、娘が同じ26歳です。今のわが子と同年から、更に若い10代の後半の若者達に死ぬことを強要してきたことは悲しく、許すことはできないと思います。
 『俺は、君のためにこそ死ににいく』のパンフレットに書かれた石原慎太郎都知事の「過酷な時代を生きた、美しい日本人の姿を残しておきたい。」の言葉が気になります。何が美しかったのか?泥水をすすり雑草を食べ戦闘を強いられ死を強いられることが美しいことなのか・・・・。

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