A子さんの笑顔
A子さんは、息子の友達のKちゃんのおばあちゃんでした。
息子にそのおばあちゃんが「宇野君のおばあちゃんは勢子さんていうんじゃない?」「そうよ・・・」「じゃあ、宇野君とこの電話番号を教えて。」ということで息子は電話番号を教えたということです。
数日後Kちゃんのおばあちゃんから母に電話が入りました。「もしもし、いつもKがお世話になってます。」「いえ、こちらこそ・・・。」「勢子さん、元気ですかA子です。」「エッ、A子さんですか!」ということで、昔話も進んだとか。この、A子さんが母の兄である宇野正義伯父の婚約者だった方なのです。偶然なのですが何かの引き合わせかと思いたくなりますね。
伯父と結婚の約束をし、伯父の戦死の知らせが来て終戦を迎えた後も待ち続けられたということでした。しかし、やはり伯父は帰ってこなかった。伯父の遺骨を納めてあるはずの箱には、フィリピンのものか白い石が入っていたということです。
本やビデオやテレビ番組を見ると、フィリピンは敗残の日本兵にとって地獄だったという話です。食料も無い。薬も無い。食べられるものは何でも食べる。それで、キノコの毒にやられたり赤痢にかかったり・・・。米軍のすさまじい攻撃、フィリピン人のゲリラの攻撃。多くの、兵士が苦しみながら亡くなっていった。伯父もその一人だったのです。
A子さんに祖父と祖母が「待ち続けてももう帰ってはこないだろう。諦めてください。」ということを話してA子さんは諦めてしまうより道は無かったということです。
話の中で、「母が息子が兄に似ているんですよ。」と話すと、A子さんは是非、会ってみたいと嬉しそうだったということです。
それから、6年が経過し、息子とKちゃんが中学生に。わたしはPTAの役員となり大岳地区の保護者を集め夏休みの生活について話し合う会合があり、わたしが司会をすることになりました。
開会の前「宇野さんですか?」と尋ねる方が。「はい。」「Kの祖母です。」と名乗られて驚きました。仕事が忙しいご両親の代理での出席です。その時、A子さんは満面の笑顔でした。
司会をしながら会場を見渡せば必ずA子さんの笑顔と視線がぶつかる。ちょっとドギマギしてしました。終了後は、丁寧に頭を下げられ笑顔でさって行かれました。若い頃のこと、伯父のことなどを思い出されたのでしょう。本当に嬉しそうな笑顔でした。
翌日、母に「正義さんそっくりでした。」と電話が入ったということです。それからしばらくしてA子さんは亡くなられました。
家族や恋人が戦死した話はどこにでもある話ですね。でも、どこにでもあっていい話ではありません。大切な生命が奪われて行ったこと。その家族や恋人たちの悲しみ苦しみは消せるものでは有りません。
こうした戦争を二度と起こしてはならない、これが私たちの父や母の世代の戦後の生き方であり、平和憲法に込められた願いだったと思います。今後の世代、世界に平和を手渡したいですね。